2014年5月1日 日本と中国 第2168号記事より転載
“劫波を渡り尽くせば兄弟あり相逢うて一笑恩讐は滅ぶ"
魯迅と西村真琴との真心からの日中友好交流に学ぼう
人気番組水戸黄門役を演じた俳優・西村晃の父 西村真琴は1904年4月長野県松本市松本中学を卒業して広島高等師範(現広島大学) 博物学科に進学しました。
この当時は官費で学べる最難関の学校であり、 県下の中学校卒業者で入学できたのは彼一人である。
中学時代に真琴は自然科学を学び動物や植物を研究すると宇宙万有の中に於ける人類 の地位を理解できると教えられました。
そして、学ぶ最適の場所は中国大陸が良いと、感受性の強い西村真琴少年に教えたのが恩師松原栄先生です。真琴を中国に渡る決意をさせるために広島高等師範に入学させました。
1908年広島高等師範を卒業後、京都府の向日村の高等小学高の代用教員となり、正式教員免許状の授与まで勤務しました。
その後、中国に渡って満州の遼陽小学校長となります。
1911年には南満医学堂(現在奉天医科大学) の生物学教授として迎えられ、西村は学校で講義をする傍ら、満州全域の生物分布を調べ中国大陸の生物の実態調査に力を注ぎました。
西村真琴は中国大陸の現状認識を深めるほどに、世界に出てより広く見識を高める必要があることを認識。
1914年南満医学堂の留学生の資格で渡米し、コロンビア大学植物学専攻科に入学し、3年間の苦学の末ドクター・オブ・ フィロソフィーの学位を得て、地球上に存在する全ての生物、動物、人類は相互依存をしているとして、広く自然科学の探求に励み、帰国後北海道帝国大学の教授となります。
札幌では自然科学者として業績を残し、特にマリモの研究では絶滅寸前の阿寒湖のマリモを他の湖に移し繁殖に成功。
また教鞭をとる傍ら生物学者として多くの業績を上げ、東大から理学博士の称号を受けた、にも拘わらず、真琴は 大学教授の道をなげうって、毎日新聞社の「50年後の太平洋」懸賞論文に応募。
本山彦一社長に認められ毎日新聞社に入社、ジャーナリストへと転身し、1927年の末に、北海道から豊中に住居を移し、まさに水を得た魚の様に論説や事業方面に自由自在に活躍し生涯を豊中市で終えた。
1932年、上海事変が起こり市街戦で廃墟と化した上海市へ災害者救援のために真琴は医療団を組織して上海に渡ります。
中国人負傷者の治療にあたる中、郊外の三義里で傷ついた鳩を見つけ手当を終えて、日本に持ち帰り三義と命名し、鳩舎に日本の鳩と共に入れたところ、日本の鳩と仲良くなり子供が出来たら日中友好のシンボルとして、魯迅に送 ることを決めました。
しかし、残念ながら鳩はイタチに襲われて死に至り、真琴は悲しみのあまり、鳩の絵と (西東国こそ違へ小 鳩等は親善あへり一つ巣箱に)と作詩し魯迅に送ります。
魯迅は4月29日の魯迅日記に、真琴の悲しい手紙と自ら描いた鳩の絵を受け、胸襟を開いて日中友好を訴える真琴に応えるべく漢詩を贈ったと記しています。
魯迅から受けた三義塔の詩について真琴は上海の政局、治安の最も厳しく、日中関係の最悪の時に、両国の民衆の真心をしっかり掴み明日を約束しているものと深い感銘を受け、歴史の証しとして人々に伝える責任を強く自覚したとあります。
この詩は名詩として中国では今も語り継がれている。
“戦争の砲弾や爆撃で街を荒廃させ人々が殺されている、飢えた一羽の鳩が西村博士の大慈悲の心に救われて戦火から逃れ得たが、イタチに殺され三義塚を残した。戦争に対する恨みは深いが西村真琴の思想心情は生き返り、日中間に隔たる困難を乗り越える闘志となって共に流れに抵抗し苦難を乗 り越えれば我々は兄弟である、相逢うて一笑すれば憎しみは消える"
1986年三義塚は魯迅の詩碑と共に真琴が晩年館長を務めた豊中市立中央公民館に市民の手で移築され、今や時代を超えて戦争への反対と日中友好のシンボルとなりました。
1939年渋る新聞社を説得し戦争で親を亡くした中国人68人を大阪に引取り、中国孤児養育事業を終戦まで続け中国語による中国の教育を施した。日中が激しくいがみ合う時代に真琴の様な日本人がいたことを忘れてはならない。
西村真琴は戦後、豊中市議会議員に当選、議長にもなりましたが、政治は性に合わないと知り辞職、その後公民館館長をやりながら日中友好に尽くしました。
魯迅は日本と中国は必ず理解し合える日が来ると明言しています。現在漢字を使用する国は日本と中国だけです。両国 の文化の深層には必ず共通点があるはずです。手を携え明るい将来のために日中友好を生み出して行くことは我々の責任 です。
文責:田中 潤治